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「認知や行動に性差はあるのか : 科学的研究を批判的に読み解く」を読みました

性差についてはまずこの本を」というのをTwitterで見かけたので読みました。

認知や行動に性差はあるのか: 科学的研究を批判的に読み解く

認知や行動に性差はあるのか: 科学的研究を批判的に読み解く

 

認知や行動に性差はあるのか:ほぼない、個人差の方が圧倒的に大きく、性差は限定的(あっても数%)

和題に対する結論を非常に乱暴に言えば「ほぼない。個人差の方が圧倒的に大きく、性差が示されているのはごく一部に限られ、その場合も性差の影響は数%」だと思います。

#女性差別大賞2018 にもある、今年起きたあれこれは何だったんでしょうかね。

心理学的性差の既存研究と解釈におけるバイアス

本書は原題が "Thinking Critically about Research on Sex and Gender" で、性差の有無に答えるというよりは、既存の性差関連研究を批判的に見ていくものです。

著者はカナダ・アメリカの先生方なので、西洋的な論調に慣れていないと、訳者(神戸女学院の先生です)があとがきで書くとおり「かなりくどい」かもしれません。しかし研究者、またその研究を解釈する我々にとって重要な指針が数多く説かれており、読み方によっては、研究リテラシーを事例とともに説いている本とも言えるでしょう。

批判として思いつくのは、工学出身者としては統計学的な観点や再現性です (例えば「女性の脳梁は男性より太い」という有名な話は、1桁の人数での調査であり、後の調査で再現性がないことがわかりました) 社会学的な観点が絡む研究では、他にも注意すべきことが色々とあるようです。

仮説のバイアス:「性差があるはずだ」という動機で研究が行われる

現代の科学は、ヨーロッパのビクトリア時代の影響を強く受けている。その当時、ヨーロッパの科学的研究において、いちばん影響力をもっていたのは、中流階級か裕福な白人男性だった。その時代の人たちは、ユダヤキリスト教の伝統に強く影響されており、そこには女性が男性よりも劣っていることを「証明する」物語があふれていた。

(中略)

彼らが自分たちの集団は優れているという考え方を広めるようなリサーチ・クエスチョンを選んだのは、驚くことではない。たとえば、男性が優れた知的能力をもっているかどうかを確かめるのではなく、男性が知的に高い能力を持っているのはなぜなのかを証明しようとすることで、科学者は現状維持に関与してきたのである。

(第2章 性差研究の歴史を簡単に展望する)

現代でも研究は「これを研究したい」という強い動機があってやるものですから、フェアな問いを立てるのは難しいと考えられます。個人がフェアにできないという前提に立てば、研究コミュニティが多様であることが望ましいと個人的には思います。

証明方法のバイアス

そもそも男性女性という自己申告で正しいデータが取れているのかという指摘から始まり、本書では手法により結論が全く変わる事例がいくつも紹介されています。

回想法では月経前のみ不調になるあるいは月経前はたいてい不調になると報告した女性が、その*時々で記録をつけたところ、報告したようなパターンが見られなかったということだ。

*抑うつ、低い自尊心、他社に対する否定的な態度のような問題

(第8章 ホルモンが女性をつくるのかーーあるいは男性も)

男性の攻撃性が人類の生存のために必要だと主張している理論家は、その主張を支持しようとして、ヒト以外の動物の行動を利用することが多い。しかしながら、従来の理論化は、自分の理論を「証明」するために、研究対象にする動物を慎重に選んでいたことが、多くのフェミニスト研究者によって報告されてきた。彼らは、オスとメスの行動がいちばん異なる動物や攻撃行動がよく見られる動物を選ぶ傾向があった。

(第12章 攻撃性の性差)

女性はマゾヒスト、育児の問題は母親のせい、といった言説は、サンプル数(セラピストによる少数の事例)やサンプリングの偏り(育児の相談に来るのは大抵が母親)もバイアスの原因のようです。

解釈のバイアス

他人の行動を観察している人たちは、問題ある行動だけを、女性の生物学的なものが原因だとみなしたという。好ましい行動をした人が月経前だと言われた場合には、その行動はその人のパーソナリティや状況の影響によるものと解釈された。

(第8章 ホルモンが女性をつくるのかーーあるいは男性も)

前段の引用と同じページにあったのでそのまま引いてきました。筆者は次のようにも言っています。

研究には限界があることを知っていれば、どのように研究を解釈するか、そのデータがどのくらい信用できるか、どのくらい重要な研究なのかを判断する際に、役に立つはずだ。バイアスのかかった実験だからというよりも、研究者も一般の人も、実験を評価する際に誤りやバイアスを考慮しないということが問題なのである。

(第3章 性別とジェンダーの研究に科学的方法を用いる)

公刊のバイアス:性差がないという結論は世に出ない

工学でも性能が出なければ没にするように、「差異がない」という結論になった研究は、公刊されにくいため「お蔵入り」になります。男女ではほとんど差異がないにも関わらず。

そして、論文を書かなければならないという動機から、研究者も採択されやすい研究トピックを選択します。

結果の利用におけるバイアス

結果の表現も、悪意のある解釈や、拡大解釈が可能です。

19世紀においても、女性の優位性を示すデータを否定できなかったとき、そのデータは女性の信用を落とし、恥をかかせるような形にゆがめられた。

(中略)

女性は知覚が非常に敏捷だが、そうした特性には「嘘をつく」傾向、つまり「ほとんど病的な」特性が伴うと指摘したのである。

女性の方が優れているとされる言語能力を、現代人が、しゃべりすぎもしくは軽率なおしゃべりといった品位のない行動に結びつけることと、実はそれほど変わらない。

(第6章 女性は男性より高い言語能力をもっているのか)

各論について

3~13章の構成は以下の通り。

第3章 性別とジェンダーの研究に科学的方法を用いる
第4章 男の子は女の子より数学ができるのか
第5章 空間能力の性差
第6章 女性は男性より高い言語能力をもっているのか
第7章 脳の性差に関する最近の研究
第8章 ホルモンが女性をつくるのかーーあるいは男性も
第9章 セクシュアリティ
第10章 女性のマゾヒズムについての神話
第11章 対人関係能力は「依存性」と呼ぶほうがよいのだろうか
第12章 攻撃性の性差
第13章 母親非難

各論どの章も面白く、3章までに書いた通り徹底的に批判的に見ていくのですが、

数学能力において得られた性差は変わりやすく、見いだされないことも多いし、非常に変動しやすい社会的要因や実験上のせいだとするのがもっともらしいように思える。

(第4章 男の子は女の子より数学ができるのか)

 と比較的穏やかな章もあれば、

女性はホルモンのせいで信頼できないとされ、それを理由に権力ある地位から閉め出されてきたのだが、男性はホルモンのせいでコントロール不可能な攻撃性があるとされているにもかかわらず、国を治めることや飛行機を操縦することが許されている。

(第8章 ホルモンが女性をつくるのかーーあるいは男性も)

女性は苦痛を喜ぶと信じている多くの人たちは、社会における女の子や女性に対する扱い方を改善しようとしない言い訳として、その信念を使っている。

(第10章 女性のマゾヒズムについての神話)

我々の社会では、母親非難を強化することで、現行の経済的・政治的権力の配分が維持されている。

  • 母親に不安を感じさせる。その結果、彼女たちはこれまで以上によい母親であろうと大きな力を注ぐことになる。自分自身や他の母親にとって、ものごとがもっと楽になるよう、そして、圧迫感を減らそうとすることはない。
  • 母親に不安を感じさせる。その結果、彼女たちは、自分の母親も含めて、他の女性よりも良い母親であろうと力を注ぐことになる。
  • 娘や息子の怒りを母親に向けさせることで、母親は無能でばかげていて……という神話をあおり、母親を力なきものにする。
  • 主要な社会的病理(子どもの非行、離婚、薬物乱用など)を母親のせいにすることで、母親という制度以外の制度(政府、教育制度、大企業など)の変化を求める圧力をそらしてしまう。
  • ここにあげたような方法を通して、女性どうしを敵対させ、組織的な権力格差に打ち勝つために団結するのを防げる。
(第13章 母親非難)

という強い口調の章もありました。共著なので著者の色が出ているのかもしれません。

特に「どのような問題であろうと、そのすべてが母親のせいにされる」で始まる13章は強く感じました。

 

ここに書いたことは私なりの理解に基づいたまとめであり、間違いもあると思います。研究リテラシーを養い、性差研究を俯瞰する本としておすすめなので、ご一読くださいませ。